昭和43年07月25日 夜の御理解
今朝御祈念の後に、吉井の熊谷さんが「先生どうしたもんでしょうか。この様に有り難い信心を頂かしてもらい、この様な有り難いおかげを頂かしてもらいながら。もうほんとに時折は、泣かにゃおられんほどに有り難いものを頂くのに、有り難くなりたい、有り難くなりたいと思うても、一向有り難くなれない事があるんですけれども」と言うて。そうですね。それは私共でもやはり、いつも「有り難い有り難い」と言うて、いつも涙がこぼれるほどに、いつも有り難いというのじゃない。
そら何かに触れた時に、こう有り難くなるのであって、問題は心の底にお互い信心を頂いておると言う事が、ほんとに有り難いと言う事があればいいんじゃないでしょうかね、と言うてまあ、これは私も同感の事ですから、そう話したんです。皆さんもやっぱり、そう思われる事があろうと思うんです。私今日あの信心研修会の時に、お話の後に何事からだったでしょうか。私が以前書きのこしちょっとメモしておった物を、何冊かのノートとしてもらっておるのがあるんです。
それはあの、久保山先生がよく綺麗に清書して、それを何冊かございます。それを私その1冊を、まあ少しばっかり読ませて頂いたんですけれども。その時には皆こう冗談ども言うて、その笑っておる時ですから、けれどもそれ読ませて頂きましてから、その自分の信心の一つの歩みと言った様な「こういう時もあった。あのような事もあった。この時に私の一番苦しい、あの時にこれ頂いた御理解だった」「これは私があの有り難い勿体無いで、どうにもできないような時に、神様下さった御教えであった。」
と思いながら読ませて頂いたら、もう胸が詰まって先に読まれなかった。「ははあ、これなんだな」と。教祖の神様でも、やはりいつも有り難い、そら金光大神の境地と言うのは、どちれへ転がしても「有り難い有り難い」と言うような、念にいっぱいの時だと言われておりますが、教祖様とても、涙に掻き暮れるほどの有り難さを、いつもいつもその、味合うておられたわけじゃなかろうね。
ただ書き残しておけとおっしゃるから、書き残しておかれた手控えなどを、お机の前で開かれる。それを読んでおられると、まあおかげを受けて来られた、越し方というものがね。まあ自分のような無学の百姓に、どうしてこのような尊い、有り難い道を開かしてくださり、有り難い事を頂いておるものであろうか、と思われたら泣くまいと思うても、泣かずにはおられないと言うて、感涙に咽ばれたと言う事でございますがね。言うふうにその、おかげを受けて来た、過ぎ越し方というものを思うてみる。
それを例えば書き残してでもしておるものを読んでみると、もう声を出しては読めないほどの、私は感激があるそこにはある。ですからちょっとつつけば、有り難いものが触れてくると言う様にですね。いつもかつもそんなに真に有り難い、と言った様なじゃなくても、心の底に心の底で、心全体が信心を頂いておると言う事がなんと、有り難い事であろうかと。なんと思うてみれば思うてみるほど、おかげを受けて来た事であろうかと。と言う様なものがあれば。
これは誰でもその様な事に直面したり、それをそのまあ紐解かしてもらう時にです、一応私は感激が湧いてくるんじゃなかろうかとね。やはり内容がです信心を頂いておると言う事が有り難いなあ。しかも次々とその信心体験と言うか、おかげというものがですね。本当に「あの時にはああだった。この時にはこうであった」と言う様に、信心の一つの信心の跡とでも申しましょうかね。信心の自分の歩いて来た、いわば歩みとでも申しましょうかそれが私は、私共の有り難いと言うものを決定付けるものね。
同時に私どもがですね、思えば思うほど神様の御守護を頂いておる、と言う事の実感ね。目をつぶって考えれば「今あるを有り難し」と思わなければおられない、という実感。これと過ぎ越し方の、あの時にはあのような、この時にはこのようなおかげを受けて来たというその実感。それとこれとが一つになってです。私は有り難いと言った様なものが生まれて来るんじゃないだろうかと。
熊谷さんの言われるように、これ程のおかげを頂いて、いわゆるもう18年間ですからね。吉井から毎日朝参りを続けられて、この様なおかげを頂いて、この様な信心に御縁を頂いて有り難いもので、内容がいっぱいである筈のにも拘らず、有り難いのが湧いてこないのはどういう訳なんだろうか。だからそれでいいんだね。それが何かの機会に、ふとこう有り難いものが心の中から甦って来ると言うか、湧きあがって来る様な、おかげを頂けれるのなら、もうそれでいいのだというふうに、私は今日感じました。
いつもかつもこう、その涙が流れるほど有り難いと言うのじゃないね。場合には笑っておる時もありゃ、腹を立てとるような場合もある。けれども目をつぶって「金光様」を唱えると、今あると言う事が有り難い。神様のこうやって有り難い御守護の中に、今日ただ今あると言う事が有り難いと言う、その有り難いとね、過ぎ越し信心の過ぎ越し方と言うものを思い出さしては、それが思われる。
私もそれをずっと読ませて頂きながら、やっぱり自分の身に一番つまされるもの。はあこの苦しい時この有り難い時に頂いた、こら御教えだったと思うただけで、もう胸がいっぱいになってそれが読まれなかった。「はあこれは時々これを紐解いて見らなければいけないな」と言った様な事まで考えたんですけれどもね。問題は私の内容にね、実感として信心を頂いておると言う事の有り難さとね。同時に日々この様な祈りの圏内に、お互いがおかげを受けておると言う事とね。
信心の自分の歩みとでも申しましょうか。そういうものがやはり克明に、こう手帳にでも書き残されて、おると言った様な事はですね、これは大変大事な事であると、言う風に思うのですね。教祖様もそのおかげを受けて来られたその事を、お帳面をお繰りになりながら、どうしてこの様な有り難い事に、なってきたであろうかとね。これがもし絵描きなら絵にも現そう。詩人なら詩にも現そうのに、と言うて神様とご一緒に感涙に、浸っておられます。
そのようなものがです、やっぱ私どもにもなからなければならないと思うんですね。皆さんも一つねほんとその、書き残されておるのでもあるなら、それを繰って声を出して読んで御覧なさい。必ずあの声になって出らないほどの有り難さを感じられる事であろう。同時にまた現在、ここに只今あると言う事ね。「今あるをうれしといやび奉らなばである」ね。そういう私は環境ですね、が起こって来る様な、時折でもそこを願っての信心。そういう信心がいよいよ有り難いと思うですね。
どうぞ。